他力のお話し

他力とは阿弥陀仏の本願力というものを言います。
本願力とは、善悪を問わず煩悩世界にさまようすべての人間を救わずにはおか ないという阿弥陀仏の働き・・すべてを救い続けている無限の力です。
救いとは浄土に往生させること・・往生とはサトリを得ること・・
ですから本願力とは、すべての衆生にサトリを得さずにはおかない阿弥陀仏の 計らい、サトリを得さしめるという慈悲の力のことです。
この本願力は遙か遠い昔・・仏教で言うところの無始の始(始まりなき始め) より一瞬の休みもなく今ここに働き続けています。
その本願の計らい(はたらき)は、人間の煩悩、業、環境、運不運等々・・あ りとあらゆるすべての事象を使い、アレンジしながら、私たちの心に「この苦 しみから逃れたい」・・「幸せになりたい」・・「癒されたい」・・「満たされぬ何 かを求めたい」・・「魂の底から救われたい」・・「サトリを得たい」・・等という思いを喚起させ、私たちを突き動かし、道を歩ませる原動力となります。
勿論この大宇宙の働きである本願力は、念仏の世界だけのものではありません。
所謂自力と呼ばれる修行や様々な宗教で説かれている神や仏、または真理を「求 める心」・・
そのすべては、ここに述べた阿弥陀仏(本願力)の計らいに依る ものであると理解しています。
心の奥底にある満たされぬ感覚とそれに伴う渇き、痛み・・真理を求めずには 居られない自然な心・・これらは全てあみださんの計らい、自らの本性である 仏性の導き、発動であるというわけです。
今この瞬間、この私たちが存在している大宇宙の真理は、生き生きと脈動し、 活動してやまない・・、そうです、すべてのものを目覚めせしめんと、救わし めんと、ありとあらゆる方法、手段を使い、今此処に働いています。
サトリとは自らが「仏」であるという目覚め・・
(勿論、ここで言う「自ら」というのは、普段私たちが「自分」であると思い こんでいる、仏教で言うところの「自我(エゴ)」のことではなく、あくまで 仏性であるところの本当の自分のことです。)
往生する・・というと何処かに「行く」ことであると思いがちですが、実のところは、自らの本性に気がつく・・自分は仏であると思い起こすことであり、錯覚(虚 仮)の世界から真理の世界に行くということです。
なむあみだぶつの世界・・
私たちは元々「仏」です。 只今この瞬間、仏が仏を育て導き成長し続けています。
迷いの眼から見れば人間(凡夫-煩悩一杯の罪業深い人間-)と仏が別れて存 在しているように見えるかも知れませんが、そんなものは錯覚であり勘違いなのです。
私たちは本来、「仏」「阿弥陀さん」「久遠の命」「無限の命と無限の光(無量寿 無量光)」です。なむあみだぶつと念仏する瞬間・・、阿弥陀さんが阿弥陀さんを拝んでいます。
なむあみだぶつと念仏する時、阿弥陀さんの声がこの口から出てくる・・というわけです。 この凡夫と言われる人間が南無と言って阿弥陀仏に帰命する(本来の姿に戻る) ・・!
これが南無阿弥陀仏です・・、本来この「私」は阿弥陀であったという事実を思い起こす摩訶不思議な言葉・・なむあみだぶつ・・なのです。
この念仏の世界では南無と言う人間(凡夫)と、無限の命と光の阿弥陀仏が不 二(二つではなく一つ)。 なむあみだぶつ・・阿弥陀さんは凡夫で凡夫は阿弥陀さん・・という真実の世 界です。
阿弥陀さんの声(念仏)がこの口から出てくる・・ さて・・、この声が出ている口は誰のもの・・? そう、私の口と言うこともできるし、阿弥陀さんの口であるとも言える・・。
はい、まさに今、ありのまま・・まるごと、この私は仏さんであります・・!
宇宙は私で私は宇宙・・わたしはあなたであなたはわたし・・。
今ここにいる私は一時たりとも阿弥陀仏から分かたれたことはなかった・・ と言うよりも、私は阿弥陀仏でなかったことはなかった・・!
まさに今・・!私は阿弥陀・・この宇宙の始めなき始めより阿弥陀は私・・! 南無阿弥陀仏・・存在の真理を表現している不可思議な言葉なのです。
この宇宙の「我も彼もないひとつの命」が自ら創造し成長し続けています。
あえて「他力」という言葉を使うなら・・
仏道を志す・・これも他力の計らい・・。 なむあみだぶつと称える・・これも他力の計らい・・ 禅をやろうと思うのも他力の計らい・・ ひたすら座って瞑想する・・これもすべて他力の計らい・・です。
しかし本来、他力も自力も有りはしない・・ なむあみだぶつの世界では自分が消えて阿弥陀だけがある。 真理の世界・・仏性の世界があるだけ。
真理・・仏があるだけ 自分は消えた他も消えた・・! ・・自も他もない・・あなたも私もない・・人間も阿弥陀もない・・
念仏三昧や禅の修行でも、究極の頂点では只々、仏・・空だけがある。 そしてそれぞれ、仏の方より(所謂他力)働かれてその境地に至る・・のです。
言い換えれば、仮の存在であり実際には存在しない自我(エゴ)が全く消えて いる実相の世界ですので、まさに実存在である「仏」だけがある・・と言うこ とになります。
言葉や思考を遙かに超えた「何か」があるだけ・・ なむあみだぶつ・・不思議なことば・・ なにもない・・空と呼ぶか無と呼ぶか・・ なむあみだぶつ なむあみだぶつ
色々と述べて参りましたが、これらの事柄は、理屈理論を完全に超えている世界なので、言葉をいくら使ってもお話しできるものではありません。
また同じく、いくら言葉を勉強し、知識を増やしたところでこれらのことを理解、体得出来るものではなく、むしろその知識が障害となって肝心のサトリ、救いを遠ざけてしまう性格のものです。
美味しい料理は、実際に食べてみて初めてその味を知るわけで、メニューやレシピをを見てもその料理がどんな食材、調味料からできているかといったことや、なんという名前の料理なのかというようなことを知ることは可能ですが、 その「味わい、美味しさ」を味わうことは出来ないことと似ています。
仏教真理の探究はあくまで「体験体得」の世界です。 真理はあまりにも広大で生き生きと成長し続けている世界です。
言葉に表すことは不可能であり、この思考の世界の論理では到底及びもつかな い、不可思議で矛盾に満ちた世界ですので、この文章で述べた事柄も頭で理解 を試みようとする限り、返って混乱を招くものに成らざるを得ません。
そうです、これら真理の探究というミチは、修行(自力他力を問わず)という 体験を経て実際にその「味」を確かめてみなくてはなんの意味もありません。
またこれ以外にも、それぞれの縁によって、個性、性格にあった(フィットする)真理探究の方法も多く存在します。
何か心の渇きを感じたり、ミチを求める心が少しでも起きてきたら、どうぞ、 この「他力の計らい」を受け取って「大安心」「浄土往生」「サトリ」へのミチを歩み出して下さい。
また、そのような仏道探求を志す人たちが少しでも増えてくることがあれば、 この現実世界も、もう少し住み良い幸い溢れる場所に変わってくるのでは・・と 期待せざるをえません。
「大安心」「サトリ」への真理探究のお誘いでございました。
なむあみだぶつ 合掌