青空と仏性

 盂蘭盆会に寄せて

       平成15年 盂蘭盆会
盂蘭盆会法要にようこそ。
限りない空・・一点の曇りもない、紺碧の空・・
この限りなくひろがる大空・・、私たちの本性、生命の真実は正にこの空のようなものです。
今年は長梅雨で、このところ、なかなかこの青空を見ることが出来ませんでした・・。
しかし、言うまでもなく、この空は失われていたわけではありません・・。

厚い灰色の雲に覆われようが、台風が来ようが・・、その輝く美しさが失われたことは、一度たりとも無かった・・。
また、雨上がりの空に美しい虹が架かろうが、夕日に照らされ真っ赤に染まった雲が自在に漂っていようが、只々、何ものにも触れられず、空はそこにあります。
これが正に私たちの本性である、「仏性」の性質です。
健康であろうが、病気であろうが、幸せであろうが、不幸であろうが、私たちの本性は、まさにあの空のように「何ものにも触れられず」ここにある・・。
この仏性は、一度たりとも失われたことのない、本当の「私」です。
この「本当の私」でいること・・これが仏法の極意・・決して難しいことではありません。
なぜなら、「本当の私」でいることは、「既にそうである」ことを思い起こすだけのことに過ぎないからです。

そして、「本当の私」でいる時、そこにはなんの不安もなく、理由の無い、湧き上がるような至福、降り注ぐような歓喜、例えようのない静寂・・永遠性に満たされます。まさにこの時、私たちは、「極楽浄土に住んでいる」とも言えるわけです。その反対に、「心、煩悩、思考」いわゆる雲たちに巻き込まれ、自分とは雲なのだというような誤解、錯覚の中に生きている時、「地獄に住んでいる」と表現できるのかも知れません・・。

自分の本体は「空」なんだという「理解」がある時・・
これがまさに阿弥陀さんの光に照らされた瞬間です。
この瞬間、いわゆる煩悩や思考に巻き込まれていた自我(エゴ)は臨終を迎え、私たちは、「いつもいつも自分は極楽浄土に住んでいた」という事実・・・そして、この浄土から一歩たりとも離れたことはなかったという事実を思い出す・・ということになるわけです。
そうです・・、この極楽浄土は、まさにこの瞬間に「今ここ」にあり、決して、肉体を去ってからでないと、住むことが出来ないというような所ではないのです。

私たちは、この地上に生まれ、そして去っていくように見えます・・。
これは単に、限りある「肉眼」で見ることのできる、生命の営みの一部分に過ぎません。
肉体を持ってこの世にいる私たち、そして、肉体を脱ぎ、ここから去っていってしまったように見える、愛しい人や家族、先祖たち・・
これらの存在の源は、この大いなる宇宙に存在する「ひとつの生命」・・「本当の私たち」はこの「ただ一つの生命」そのものに他ならないわけです。

盂蘭盆会・・お盆は、どことなく「懐かしい」感じのする時間でもあります。この懐かしさは、普段忘れてしまっている「本当の私」を求め、それを懐かしがっている、根元的な感情なのかも知れません・・。

懐かしさに満たされた、お盆の法要・・
この時をとらえて、生命の不思議を観照し・・生命の真実を思い起こしてみましょう・・。
                                                   合掌
                      

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