理由の無い喜び


私たちの内側にある本性・・その「空」と呼ばれる、全き静寂のスペース・・
「観照」というものをしていると、自分の命の本源である、この「場所」が自分の本体に他ならないということに気づくわけです。

そして、その場所には、「喜び」が何の理由もなしに、ただ湧いています。
この「全き静寂のスペース」に滾々と湧いている「喜び」には、何も理由がない・・
ただただ嬉しい・・汲めども尽きせぬ歓喜が、ただただそこにある・・。

通常、私たちの感じる喜びには何かしらの「理由」があります。
予想外の収入があったとか、病気が治ったとか、恋人ができたとか・・様々な理由がそこにあって、「自分の好み」にあった事が起こると「喜ぶ」ということになるわけです。
しかしながら、こういった種類の喜びは、条件付きのものであって、非常に壊れやすく、外部の環境や条件などによって、簡単に失われてしまうものです。
お金が入って喜んでいたら、落としてしまったとか、病気が治ったと思ったら、事故にあったとか、恋人ができたら、けんかが絶えないとか・・、望んでいたことが叶って喜んでいたら、次の瞬間には悲しんでいた・・というようなことは、年中起き続けています。
私たちが生きている「生」の表面は、絶えず変わり続けている・・、これを仏教では「諸行無常」と言う有名な言葉で表現しています。そうです、肉眼に見える表面的な「生」は、私たちの好みや善悪を超えて絶えず変わり続けています。

「なにかしらの理由が引き起こす喜び」というものに慣れ親しんでいる私たちには、この「理由のない喜び」というものは、少し理解しがたいかもしれません。
しかし、この「理由のない歓喜」は、理由がないだけに、条件に左右されない絶対的なモノと言えます。
うまいものを食べたとか、面白いものを見たとかいう「理由」に左右されないもの・・逆に言うと自分の好みに合わない事・・所謂、不運とか不幸とか言われるモノにも一切、左右されることなく存在している・・「絶対的な喜び」と言えるわけです。
それは、「好み」であるとか「善悪」、「道徳」等というものを遙かに超えて、今此処にあるというわけです。

そして、この「静寂のスペース」にいて、止めどなく湧き出る「歓喜」に酔いしれていると、その「歓喜」が「歓喜」を呼んで、現実の世界にも喜ばしいことが起きてくるというのも事実です。
不思議なことですが、通常の感覚の反対・・「良いことが起こった」から「喜ぶ」という図式ではなく、「喜んでいる」と「良いことが起こる」という、古くからの諺にある「笑う角には福来たる」というような事が、現実になってくるわけです。

この「理由なき喜び」の湧き続けている、命の根元・・
ここには、正に「阿弥陀さんの無量なる(限りない)光」が降り注いでいる・・。
本当のことを言えば、阿弥陀さんそのものが、ここにいる・・ということです。
極楽浄土は、遠い何処かにあるのではなく、正に正に、今此処にある・・!
このことを味わうことにより、阿弥陀さんは「拝むもの」から「生きる」ものになります。
ただただ、ありがたい・・何の理由もなしに・・
ただただ、うれしい・・何の理由もなしに・・ということを体験します。
それは、生も死も超え、幸も不幸も超え、それらには、何の影響も受けず、ただひたすら「此処」にあります。
このスペースでは、「私」という個人は消え、それと同時に「あなた」というものも消えています。
そうです・・、ただ、広大な、無限に広がる生命・・実に私たちは、阿弥陀さんそのものであった・・!

このような不可思議な事柄は、それを体験し、それを味わって、実際にそれを「生きる」と言うことによって初めて得られることであって、本を読んだり、人の話を聞いたりするということだけでは、決して得られないことです。
これは、あらゆる技能や技術が、「知識を得る」ということで、習得できるものではないということと同じ事だと言えるでしょう。
特にこのような神秘的な事柄に関して、「知識」というものは、かえって先入観を作り、「知る」ということの邪魔になってしまうものです。

ありとあらゆる情報が飛び交い、精神的にも肉体的にもストレスを受け続けるこの現代、時には落ち着いて座り、自分の体、心、感情などを、善悪や好悪の判断を持ち込まずに、ただ「見る」・・。
人生に挫折感を感じ、生きることの意味を探し始めた人、社会の価値観に振り回され、疲れてしまった人などに、特にお勧めしたいのが、この「観照」と呼ばれるブッダの智慧です。
                                合掌

 

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